ドラマ版のだめカンタービレが終わった


上野樹里の演技に賞賛が集まっているみたいだが、おれとしては最後まで違和感が残った。確かに、原作で描かれるのだめを忠実に再現していたと思う。そこに違和感を感じているのではない。表現の生っぽさに生理的嫌悪感を感じる。同じ様な感覚を最近味わった気がする…「たったひとつの恋」の田中聖の演技だ。主役の亀梨には感じない違和感。


上野樹里はかわいらしい。にもかかわらず、見ていて不快な気持ちになる。それはきっと「演技」ではないからだろう。虚構であるドラマに生身の人間が挟み込まれている様な違和感を覚える。田中の演技もそうだった。粋がった様子でまくし立てるさまは、演技と言うよりは彼の日常を思わせる。


そもそも、演技とはなんなのだろう?役柄に対して、役者が服従を示すことで、対象は物語の一部として組み込まれる。演技とは装置的な意味合いが強い。儀式的と換言してもいいかもしれない。イニシエーションの手続きを踏むことで、物語と同化できる。


上野や田中の場合は、それが逆転している。役者に対して役柄が服従を示している。それは、演技ではないと思う。並行世界は交わらないのが前提であるが、上野や田中を媒介して現実と虚構(ドラマ)が貫通するという不条理が発生している。きっとそのエアポケットに強烈な違和感を感じるのだろう。現実の虚構の関係性で思い浮かぶのがドキュメンタリーというジャンルの成立過程であるけれど、これはドキュメンタリー作品ではない。ドラマだ。


いろいろな日記読むと、役にシンクロしてたってみんな大絶賛なんだなあ。ううむ。