ショスタコーヴィチ交響曲8番


引っ越し、バンドの深夜練習の合間を縫ってサントリーホールへ行ってきた。

あまりに忙しくて、前半のシニートケを聴き逃したのが残念だったけど、そもそも8番だけでいい様な気もしてたから、開き直って客席へ。デプリーストのショスタコは初めて聴くのでどんなものかとわくわくしていた。


第一楽章の冒頭の和音は、しっかりテヌートして欲しいと思うけれど、そこらへんは要領を得ている感じがする。こなれていると言うか。そして曲が進んですぐに、ヴァイオリン群がとても美しいことに驚く。最近聴いた実演の中では、都響のヴァイオリンセクションは一頭地を抜いている。それに比べると低弦はやや落ちる。ここが補強できれば、高いクオリティの弦セクションになるだろう。管はトロンボーンが上手く、なかなか聴き応えがある。いい表情をして演奏しているオーケストラだと思った。それが音に出ている。


第一楽章は曲自体に起伏があるから、そのまま演奏するだけでも、かなり充実した音楽になる(そのまま演奏するのが難しいのだけれど)その点で、デプリーストは煽ったりはしないし、やたらな強調もしない。曲の構成を見据えながら指揮をする。決して熱くならないので、爆演系の演奏を求める人には、はっきりと不満が残ると思うが、私は満足した。二楽章はある意味手を抜くことも必要だ。ショスタコーヴィチらしいスケルツォなので諧謔味が欲しい。しかし、手加減すること、おどけること、楽しむことは違う。この都響の演奏は力を抜いていただけに思える。別にそれが悪いというわけではないが、柔軟な表現の方が聴いていて楽しい。三楽章はアンサンブルの精度が問われる。アンサンブルに着目すると室内楽的な響きになりがちだが、ここでもわりと小振りな演奏を心がけていた。荒れ狂うような打楽器で幕を開ける四楽章を考えると、それはそれでいい気もするが、肝心のパッサカリアがまずい。


8番で大切なのは間違いなく第四楽章のパッサカリアだ。ショスタコーヴィチの作品におけるパッサカリアの重要性は、誰もが知るところだろう。ヴァイオリン協奏曲1番三楽章、交響曲15番終楽章…そこにあるのは憐憫の情だと思う。デプリーストの理知的な指揮もここで破綻する。いや、破綻しないことが破綻したとでも言うべきか。曲の持っているはずの情感が、大きく身を乗り出してこない。指揮者とオケ間で自家中毒気味に処理されているのが残念だった。これが、デプリーストの現時点における、限界なのかもしれない。終楽章も物足りなく、一楽章のなかなかに洗練された音楽からすると不満だった。


都響とデプリーストのラフマニノフ交響曲2番のCD[fontec]を持っているのだが、実演と録音を通して感じたのは、表現のアクの少なさだ。全体をまとめることに関心が行き過ぎな気もする。もっと瞬発的に感じていることを観客に伝えて欲しいように思う。アク取りばっかした鍋は旨みが少ないという。プロとしては立派な気もするが、ショスタコーヴィチはもっと素晴らしい作曲家だと思う。