テンポについての覚書

 最近、フルトヴェングラーをよく聴く。その特徴である、テンポの動かし方について考えることが多いからだ。そのきっかけを与えてくれたのが、戦時中に録音されたブラームスの4番[Delta/Melodiya]と晩年のブラームス3番[DG]だった。共に終楽章の盛り上げ方が凄まじく、ブラームスのロマンティシズムが最大限に活かされている。私は、ムラヴィンスキーという指揮者がとても好きだけれど、その対極ともいえるフルトヴェングラーにも、魅力を感じる。


 ブラームス交響曲4番の終楽章の変奏について、二人の指揮ぶりを比較してみたい。フルトヴェングラーは、各変奏をキャラクタリスティックに描き出すのではなく、変奏全体の統合を目指して演奏していたはずだ。その結果、猛烈なスピードのアクセルをかけてみたり、フレージングを犠牲にしてでもオーケストラをドライブさせることが多くなる。一方、ムラヴィンスキーは違う。個々の変奏をきっちりと性格付けをすることに終始しているといえる。一番おもしろいのが、フルトヴェングラーで加速させるところを、ムラヴィンスキーは逆に、テンポを落として、はっきりと聴衆にフレーズを印象づける様に演奏することだ。そして、二人とも、そのテンポの移行によって、他の演奏家にはない、豊かな情感を獲得している。


 テンポを速めることは、一番わかりやすい形の盛り上げ方だと思う。その点で、フルトヴェングラーほど、それを意図的に用いた指揮者はいないだろう。ムラヴィンスキーは、テンポを落とすことで、盛り上げていく。遅くなった瞬間、感情がスローモーションで沸き上がってくるのだ。ここに二人にの指揮者の考え方の違いをはっきりと見て取れる。


 フルトヴェングラーのテンポの移行は、高揚感をそのままテンポに反映していると言われている。もちろん、それには同意するけれども、一部では「だからフルトヴェングラーはわかりやくて嫌」という人もいるらしい。ただ、有名なシューマンの第4番のスタジオ録音を聴けば、この指揮者の実像が少しは感じられると思う。ただヒステリックに泣き叫ぶ指揮者とは違う。これほど計算されつくした演奏は、そうそう聴けるものではない。第一楽章が最もわかりやすい。この楽章は、入り組んだ構造を持っており、整理して演奏をしないと、すぐによくわからなくなってしまう。フルトヴェングラーは、反復の強さや漸強など、常に一定の音量でコントロールしている。アッチェレランドのかけ方も、タイミングで切り上げたりと安定している。常にこういった理想や戦略があったのだろう。つまり、感情にまかせて、走り抜けているだけではないのだ。最近、テンシュテットのライブはフルトヴェングラーに匹敵する、なんて意見を聞くけれど、私はそうは思わない。テンシュテットフルトヴェングラーに比べれば、純粋すぎる。