ベルリンフィルのジルベスター・コンサート


BSでジルベスターをやってたから見た。普通によい。放送に際してマルチマイクで録って、かなり音をいじっていたと思う。うさんくさいくらいにクリアな音質だった。2005年にBPOが来日した時とは印象が変わっている。オーケストラの響きはかなり筋肉質になってるし、精度もより高くなっている気がする。来日公演ではシカゴ響の様なインターナショナルなオケになったな、という感想を持ったが、今回はそれだけの印象に終わらない。弦に以前には無かった華やかな色彩を認めることができた。オーケストラもラトルを信頼し始めている感じだった。


ドン・ファンみたいな曲を、これだけ充実した内容で聴かせられる手腕に驚かされる。リヒャルト・シュトラウスは、言うなればツンデレ作曲家だと思う。英雄の生涯では、自分が英雄だとか大風呂敷を広げてるけれど、その背後にあるのは弱さと感傷だと思う。どの交響詩も一瞬だけれど、切ない表情や弱々しさを見せる。例えば、ドン・ファンはあれだけ盛り上げときながら、最後は独り言のようなピチカートで終わる。この威嚇的な強さの背後に潜む弱さが、後にメタモルフォーゼンみたいな傑作を書かせたのだろう。このラトルとBPOの演奏は、そういった感傷にもしっかり目配せした周到なもので、説得力があった。


見物は内田光子とのモーツァルトピアノ協奏曲20番。20番はしんどい曲だ。モーツァルトの鬼神ぶりが全面に出ている。内田が弾くと、それはまるで地獄絵図のようになる。圧倒的に独自の世界だ。これは受け付けない人も多いだろうな。顔も仏像みたいになってるし。即興的に世界を作りすぎだ、という批判をどこかで読んだが、それは見当違いだと思う。内田光子は西洋思想的、即ち悟性的に演奏に取り組んでいる様に思う。しっかりとどこで聴かせるかといったプラニングは練りに練っている。その中で自由にやっているだけだ。ラトルの伴奏も、一時のピリオド奏法的アプローチとは適度に距離をとったもので、独奏とよい調和を見せていた。