カンブルランのドビュッシー


現代音楽を聴く人には馴染みのある名前だと思うけれど、知名度はまだまだ低いカンブルラン。読響への客演があったので聴きに行った。東京芸術劇場。予想通りというか、ちらほらと空席が目立つ。

前半はモーツァルトプログラム。しかし、お話にならない出来だった。楽譜をそのまま音にしているだけ。プラハは対位法の再現とか聴かせどころが沢山ある曲だけど、そういった細密的な描写の魅力にも乏しい。現代音楽系の指揮者がモーツァルトのような古典を演奏すると、ピリオド奏法的なアプローチが見られたりするものだけど、カンブルランは模範的で均整のとれたオーセンティックな演奏を心がけていた。それがピアノ協奏曲23番の伴奏では活かされていた。バランスのとれた伴奏でプラハよりずっと良かったが、今度はソリストのムラロがいけない。


ムラロも現代音楽を得意にするピアニストだ。私の中ではエマールに近い立ち位置にいる。このタイプの演奏家に多い、ころころとして、音離れのよいタッチでピアノを弾く。しかし、音が明快すぎて、漸弱・漸強でなめらかさや抒情を失う時もある。ムラロのモーツァルトもそこが問題で、弱音のニュアンスに乏しい、幼稚な演奏に思えた。二楽章の出だしなんか、最高の見せ場だと思うのだけれど、ムラロは弾き飛ばす様にポンポンと進む。もうがっかりした。ただ、アンコールのラヴェルは得意にしているだけあって、良かったけれど。


後半はドビュッシーがテーマのプログラム。ストラヴィンスキーはオケの非力さがまず気になった。管楽器だけで演奏するので、高いアンサンブル精度が求められるが、ちょっと厳しい。女性のクラリネットはとても良いけれど、態度のでかいあのトランペットとか投げやりで聴くに堪えない。なぜ吹ききらないのか?ただ、明かにカンブルランの指揮は活気付いており、この指揮者の持ち味の片鱗が見えた気がした。


そして、「海」が始まる。これは大したものだった。プローベの殆どをこの曲に費やしたのではないだろうか。至る所にカンブルランのこだわりを感じる。オケも初顔合わせのわりに、意図をよく理解していたと思う。弦のトレモロの微細な色彩感はとにかく美しいと思わせるし、カモメの鳴き声が聴こえてくるようだった。解釈的にはヘンスラーから出ている、南西ドイツ放送響の録音と相違ない。


カンブルランの演奏は、割とのっぺりとしている。つまり、構造面を一振りで開示していくタイプの演奏ではない。音楽の持っている生々しさ、シークエンスといった要素を切り捨てずに引き延ばしていく。その上で、曲にパースペクティヴが生まれれば良いというスタンスなのだろう。要するに、愚直なのだ。繰り返し演奏すればするほど良さが出てくる気がした。だから、明日も同じプログラムの演奏会があるが、そちらの方がより高い純度の表現になるのではないだろうか。


アンコールのサティ=ドビュッシー編のジムノペディはピアノをハープに置き換える上手さとか、ドビュッシーらしい立派なものだから、もっと演奏して欲しいと思っていた。アンコールで聴けて、嬉しかった。15日のトゥランガリーラはムラロも得意だろうし、行こうかなあ。