宮下誠「20世紀音楽」を読む


20世紀音楽(現代音楽とは言わない)をわかりやすいものとして紹介。基本的に作品の解説に尽力していて、著者の趣向やオピニオンを明確には打ち出していない。あえて言えば教科書的。この作者はもともとクレーの研究者で、美学が専門。美学から音楽批評というと許光俊が思い当たる。


作者はリヒャルト・シュトラウスやヴォーン=ウィリアムズの作品も20世紀音楽、わかりやすいよだから恐れずに近代の音楽も聴けばいい、と提案している。ヴォルフガング・リームや新ロマン主義に対する言及もしていて、広汎に目配せをしているつもりみたい。(スペクトラル学派なんかはごっそり抜けているけれど) こういった音楽ガイドの性格を考えると、もっとバランスとれた紙数配分が好ましいと思う。ヒンデミット力入りすぎ。あと、コラヴォレートって・・・誤植?


宮下の書く文章は、レトリックが硬直化していて、つまらない。音楽は思想ではない。文章から音を感じさせることは不可能だけれど、この本を対象とするのは現代音楽に馴染みがない人。鳴っている音を少しでも想起させる工夫が必要だったのではないか?それこそ、主観的な意見でいいから、大胆に形容するくらいの判断が欲しい。そもそも、音楽を完全に換言することはできないのだから。鈴木淳文がフェルドマンを紹介する様は、稚拙ながらも愛情があった。入院している時にはツェンダーの指揮したフェルドマンが具合がいい、といった旨だ。宮下の書いたフェルドマンの項を読んでも、聴いてみようと思う人は少ないだろう。


一番面白いのは、作者の推薦する録音を紹介するページ。短評だけれど、楽しそうに書いているのが伝わってくる。この気分を、本文に反映すればよかったのに。

ラトル4枚目のシマノフスキ(歌曲集)


バーミンガム市響とのスタジオ録音[EMI]。これはいいよ。特に「ハルナシェ」はラトルのベストレコーディングに数えてもいい。第2場のツェピーネからが圧巻。バーミンガム市響合唱団が抜群に上手い。ソリストのロビンソンも表情の付け方が巧みで、強奏指示でも叫ばず、丹念に歌っている。声量もある。バレエ(パントマイム)音楽で、次々と情景が移り変わっていくけれど、ラトルは手練手管を見せず、鮮やかに処理していく。バーミンガム市響の技術水準も驚くほど高い。だからこそ、ここまでさらりと演奏できたのだろう。ラトルは、はじけ飛ぶ打楽器の色彩を生かすのが上手で、舞曲的なこの曲と適合度が高い。打楽器出身の指揮者だけはある。この人にとって、ショスタコーヴィチガーシュインに匹敵する得意レパートリーが、シマノフスキだろう。EMIにしては、非常にクリアで優れた音質。そういえば、ラトルとボストリッジブリテンも録音がよかったな。ただ、エピローグで、ロビンソンの声が遠くなる(別録りかマイクの位置がずれたのだろう)のが残念だ。


ラトルとBPOのCDは予算の関係のせいか、そのほとんどがライブ録音である。結果として、細部はどうしても荒くなってしまうし、直せない部分も出てくる。このシマノフスキは、BPOでなくCBSOを登用しているが、スタジオ録音だ。そこが大きい。ラトルはライブで爆発的な演奏をするタイプではないだけに、落ち着いて曲を俯瞰できるスタジオ録音の方が向いているのだろう。サラ・チャンとのショスタコーヴィチ・ヴァイオリン協奏曲1番のような悲惨なCDを作るくらいならじっくりとスタジオ録音をすべきだ。

チェリビダッケのブル5

Urlicht2007-01-04



このCD[Altus]が売れに売れている。1986年のサントリーホール開館記念で来日した際の演奏。チェリビダッケの、海賊版を含めたディスコグラフィの中でも、特筆すべき一枚だと思う。ここまで高音質なチェリビダッケの録音自体が少ない。大手レーベルのライブ録音程度の解像度はあるし、なによりも変なリマスター臭がしない、自然な音響がすばらしいと思う。


肝心の内容は、この年代のチェリビダッケらしい、強靱な造形力で研磨されたブルックナーが展開されている。1970年代のシュトゥットガルド放送響時代と、1990年代のミュンヘンフィル時代の演奏様式には大きな隔たりがある。晩年のチェリビダッケの志向した音楽は、時にグロテスクさすら感じさせた。すべてを拡大しつつ、執拗に描写しようとする。背後に極度の緊張がある。シュトゥットガルド時代は、音楽を丹念にバランスをとりつつ磨き上げたといった風情で、そこまでの伸張は見られない。


このAltus盤は、その2点の中間点的な演奏であると思う。グロテスクに引き延ばされていない。「チェリビダッケは苦手だったがこの演奏はいい」という話も聞くが、それも納得がいく。Altus盤はひたすら美しく、怪奇的な印象を一切与えない。要するに、わかりやすい。その分、晩年の、あのグロテスクなまでに巨大で美しい音楽を期待していると、肩すかしを食らうのも事実。ここまで完璧にすぎると、その美しさに、素直に共感できないんだよな。贅沢な悩みか。

ネットにおける一人称の問題


インターネットで書き込みをしているときにぶち当たる問題がこれなんだよな。「俺」より「おれ」と書いた方がネット慣れしてるみたいに見えるとか、「私」を使うと堅苦しくて日記ぽくならないとか。意図しないで一人称を選択できるといいんだろうけど、それが実は難しい。ブログはパブリックに開かれているという前提があるわけで、それに立脚したパフォーマティブな問題だといえる。

最近よく聴くCD

Urlicht2007-01-02



山田耕筰長唄交響曲「鶴亀」[Naxos]を手に入れてから、何度も聴いている。おれみたいな長唄(というよりも邦楽)初心者には親しみやすくて丁度良い。それはオーケストレーションの巧みさによるところが大きいのだろう。曲の展開に合わせて、理解を助けるように弦楽群が伴奏してくれるので、歌詞を知らずともなんとなく盛り上がりはわかる。西洋音楽的な和声進行の方が自然に受け入れられるというのもなんだか悲しいけれど。


この鶴亀やいくつかの雅楽の録音を聴く限りでは、その音楽はガムラン音楽に近い様に感じる。三味線の打拍の感覚なんて直接的かつ、身体的である。曲自体の構成も非常に考えられている。エロティックですらある。


長唄にただオケをかぶせただけじゃん、なんて話もきく。実際にその通りである。ただ、山田は軽い気持ちでそのまま長唄を下敷きにした訳ではないと思う。ゼロからそれを作り出す困難さ、先駆者への尊敬から生まれる謙虚さから、そのまま長唄を用いることを選んだのだろう。その真摯さが心を打つし、だからこそこの挑戦は実を結んだんじゃなかろうか。


これは別のところにも書いたのだれど、演奏と録音がすばらしい!東音宮田哲男と東音味見亨は凄みがある。長唄を知らずとも、表現の水準の高さを感じることはできる。都響も破綻のない好サポートをしているし、湯浅卓雄も実にしっかりとした解釈を聴かせる。EXTONレーベルの江尻氏が出張録音をしているみたいだが、これはいい仕事をしたと胸を張っていいだろう。長唄管弦楽の分離の良さはこの曲の録音のキモ。

ベルリンフィルのジルベスター・コンサート


BSでジルベスターをやってたから見た。普通によい。放送に際してマルチマイクで録って、かなり音をいじっていたと思う。うさんくさいくらいにクリアな音質だった。2005年にBPOが来日した時とは印象が変わっている。オーケストラの響きはかなり筋肉質になってるし、精度もより高くなっている気がする。来日公演ではシカゴ響の様なインターナショナルなオケになったな、という感想を持ったが、今回はそれだけの印象に終わらない。弦に以前には無かった華やかな色彩を認めることができた。オーケストラもラトルを信頼し始めている感じだった。


ドン・ファンみたいな曲を、これだけ充実した内容で聴かせられる手腕に驚かされる。リヒャルト・シュトラウスは、言うなればツンデレ作曲家だと思う。英雄の生涯では、自分が英雄だとか大風呂敷を広げてるけれど、その背後にあるのは弱さと感傷だと思う。どの交響詩も一瞬だけれど、切ない表情や弱々しさを見せる。例えば、ドン・ファンはあれだけ盛り上げときながら、最後は独り言のようなピチカートで終わる。この威嚇的な強さの背後に潜む弱さが、後にメタモルフォーゼンみたいな傑作を書かせたのだろう。このラトルとBPOの演奏は、そういった感傷にもしっかり目配せした周到なもので、説得力があった。


見物は内田光子とのモーツァルトピアノ協奏曲20番。20番はしんどい曲だ。モーツァルトの鬼神ぶりが全面に出ている。内田が弾くと、それはまるで地獄絵図のようになる。圧倒的に独自の世界だ。これは受け付けない人も多いだろうな。顔も仏像みたいになってるし。即興的に世界を作りすぎだ、という批判をどこかで読んだが、それは見当違いだと思う。内田光子は西洋思想的、即ち悟性的に演奏に取り組んでいる様に思う。しっかりとどこで聴かせるかといったプラニングは練りに練っている。その中で自由にやっているだけだ。ラトルの伴奏も、一時のピリオド奏法的アプローチとは適度に距離をとったもので、独奏とよい調和を見せていた。