ドラマ版のだめカンタービレが終わった


上野樹里の演技に賞賛が集まっているみたいだが、おれとしては最後まで違和感が残った。確かに、原作で描かれるのだめを忠実に再現していたと思う。そこに違和感を感じているのではない。表現の生っぽさに生理的嫌悪感を感じる。同じ様な感覚を最近味わった気がする…「たったひとつの恋」の田中聖の演技だ。主役の亀梨には感じない違和感。


上野樹里はかわいらしい。にもかかわらず、見ていて不快な気持ちになる。それはきっと「演技」ではないからだろう。虚構であるドラマに生身の人間が挟み込まれている様な違和感を覚える。田中の演技もそうだった。粋がった様子でまくし立てるさまは、演技と言うよりは彼の日常を思わせる。


そもそも、演技とはなんなのだろう?役柄に対して、役者が服従を示すことで、対象は物語の一部として組み込まれる。演技とは装置的な意味合いが強い。儀式的と換言してもいいかもしれない。イニシエーションの手続きを踏むことで、物語と同化できる。


上野や田中の場合は、それが逆転している。役者に対して役柄が服従を示している。それは、演技ではないと思う。並行世界は交わらないのが前提であるが、上野や田中を媒介して現実と虚構(ドラマ)が貫通するという不条理が発生している。きっとそのエアポケットに強烈な違和感を感じるのだろう。現実の虚構の関係性で思い浮かぶのがドキュメンタリーというジャンルの成立過程であるけれど、これはドキュメンタリー作品ではない。ドラマだ。


いろいろな日記読むと、役にシンクロしてたってみんな大絶賛なんだなあ。ううむ。

ショスタコーヴィチ交響曲8番


引っ越し、バンドの深夜練習の合間を縫ってサントリーホールへ行ってきた。

あまりに忙しくて、前半のシニートケを聴き逃したのが残念だったけど、そもそも8番だけでいい様な気もしてたから、開き直って客席へ。デプリーストのショスタコは初めて聴くのでどんなものかとわくわくしていた。


第一楽章の冒頭の和音は、しっかりテヌートして欲しいと思うけれど、そこらへんは要領を得ている感じがする。こなれていると言うか。そして曲が進んですぐに、ヴァイオリン群がとても美しいことに驚く。最近聴いた実演の中では、都響のヴァイオリンセクションは一頭地を抜いている。それに比べると低弦はやや落ちる。ここが補強できれば、高いクオリティの弦セクションになるだろう。管はトロンボーンが上手く、なかなか聴き応えがある。いい表情をして演奏しているオーケストラだと思った。それが音に出ている。


第一楽章は曲自体に起伏があるから、そのまま演奏するだけでも、かなり充実した音楽になる(そのまま演奏するのが難しいのだけれど)その点で、デプリーストは煽ったりはしないし、やたらな強調もしない。曲の構成を見据えながら指揮をする。決して熱くならないので、爆演系の演奏を求める人には、はっきりと不満が残ると思うが、私は満足した。二楽章はある意味手を抜くことも必要だ。ショスタコーヴィチらしいスケルツォなので諧謔味が欲しい。しかし、手加減すること、おどけること、楽しむことは違う。この都響の演奏は力を抜いていただけに思える。別にそれが悪いというわけではないが、柔軟な表現の方が聴いていて楽しい。三楽章はアンサンブルの精度が問われる。アンサンブルに着目すると室内楽的な響きになりがちだが、ここでもわりと小振りな演奏を心がけていた。荒れ狂うような打楽器で幕を開ける四楽章を考えると、それはそれでいい気もするが、肝心のパッサカリアがまずい。


8番で大切なのは間違いなく第四楽章のパッサカリアだ。ショスタコーヴィチの作品におけるパッサカリアの重要性は、誰もが知るところだろう。ヴァイオリン協奏曲1番三楽章、交響曲15番終楽章…そこにあるのは憐憫の情だと思う。デプリーストの理知的な指揮もここで破綻する。いや、破綻しないことが破綻したとでも言うべきか。曲の持っているはずの情感が、大きく身を乗り出してこない。指揮者とオケ間で自家中毒気味に処理されているのが残念だった。これが、デプリーストの現時点における、限界なのかもしれない。終楽章も物足りなく、一楽章のなかなかに洗練された音楽からすると不満だった。


都響とデプリーストのラフマニノフ交響曲2番のCD[fontec]を持っているのだが、実演と録音を通して感じたのは、表現のアクの少なさだ。全体をまとめることに関心が行き過ぎな気もする。もっと瞬発的に感じていることを観客に伝えて欲しいように思う。アク取りばっかした鍋は旨みが少ないという。プロとしては立派な気もするが、ショスタコーヴィチはもっと素晴らしい作曲家だと思う。

トゥランガリーラ交響曲


結局、聴きに行ってしまった。

やはり、カンブルランの得意にしているのは、現代音楽だなと思う。改訂されたものをしっかりと参照し、メシアンの意図を忠実に再現していた。サクサクと進む。非常に演奏の難しい曲だけに、指揮者の手腕が問われるけれど、カンブルランは全身を指示記号の様にして楽団を率いていた。先週のドビュッシーの項でも書いたけど、この人はズバズバと構造面を暴こうとするタイプではない。曲の流れというものに注意を払いながら指揮をしている。そこが現代音楽を得意とする多くの指揮者と違う所だろう。リズムや打拍の感覚を誤魔化さずに演奏することで、複雑さから曲を解放することに成功していた。楽しみながら指揮をしているのだ。それが聴き手にも伝わるのだろう。ただ、オケは苦しくなる部分も多く、アインザッツなどもっと決まって欲しいと感じる部分もあった。後半は息切れをしていたが、なんとか乗り切ったみたいだった。余力十分である第一楽章が最も充実していた。


ムラロもモーツァルトと全然違う。断然、メシアンの方が優れている。音の明瞭さが心地良い。第八楽章なんてとても鮮やかに弾ききっていた。原田のオンド・マルトノは、三楽章とかもっと玄妙な発音を望みたかったけれど、それなりにしっかりと仕事をしていた。


客席は空いてたけど、がんばっていたと思う。カンブルランはもっと上手いオケで聴いてみたい。来年はスクロヴァチェフスキも読響でメシアンを振るし、チョンもトゥランガリーラ交響曲をやるようだ。

バレンボイムのマラ7

Urlicht2006-12-12



ジャケが気持ち悪くて店頭で買うのに気が引けると話題のこのCD[Warner]を買った。もちろん通販で。


バレンボイムマーラーなんて聴く方が悪い、とか宇野功芳ばりに書き殴ろうかとでも思ってたら、意外に良くてバレンボイムのことを見直してしまった。


弦の刻みをここまで強調する人も珍しいんじゃないだろうか。不穏な空気が漂う。トランペットがけたたましく鳴る。ティンパニもドカドカと鳴る。その思い切りが心地良い。こののたうち回ってる感じはどこかで聴いたことがある・・・クレンペラーだ。ただ、クレンペラーみたいに象が踏み荒らしてる様な巨大さはない。もっとコンパクトにまとまっている。


7番はマーラーの中でも一番好きな曲で、第一楽章の終結部とか第四楽章のギターの音とか聴いてると切なくなってくる。しかし、その切迫した、ある種の滑稽さを感じさせてくれる演奏は、意外と少ない。古くはクレンペラー、シェルヘン、ロスバウト、最近だとシャイー、ラトル、テンシュテット(ライブ)あたりが優れた演奏だと思うけど、このバレンボイム盤はそれらと比べても聴き劣りしない。むしろ勝ってる部分もたくさんある。ブロック的に整理して聴かせる演奏、全体を熱狂的に押し切る演奏の2通りあるけれど、バレンボイムはどちらの要素もあって面白い。激しいんだけど、バーンスタインみたいに盲目的になってもいない。ちゃんと先々まで展開を把握しているオーケストラ・ドライブがある。

ルソーは夢なんか見ない


世田谷美術館でやっているアンリ・ルソー展が最終日なので、徹夜明けでも見に行ってきた。気持ち悪い。


素朴派には大して興味はないけれど、ルソーは見てみたかった。下手の代名詞みたいに言われるルソーだけど、実際はそんなことはない。どうすれば視線が動くか、空間を生み出せるかといった絵画のセオリーを熟知していたのは間違いない。下図を描いて、職人的に仕上げていく。過剰な即興性を排除していく。


「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」は実に彼らしい作品だ。安定した構図の中にも、鈍い視線の動きが隠されている。シンメトリックな構図である。しかし、この絵の不思議なところは、左から右へ微妙な色の動きがあり、奥の空間は際限ない広がりを感じさせる。左はローアンバー、右はオリーブグリーンが重用な役割を果たしている。
一見すると動きはないが、この微細な色彩調整によって絵が重くなりすぎることを防いでいる。シンメトリックな構図は宗教画に多く見られるように、秩序を示すものとしてよく知られている。そして、重厚で堅牢な印象を与えるものだが、この作品にはそういった要素は感じられない。森、あるいは自然というものは、混沌としていて、無秩序に思える。しかしながら、そこには厳粛な秩序も存在する。その二面性をこの作品は内包している気がする。奥の空間、木々の重なりも、非常に理に適った構図や色の処理が施してあり、この作家の知性がはっきりと刻印されている。


不作な展覧会だったと言えるが、出色だったのは松本俊介だろう。ルソーの影響を表現まで上手く昇華している。その成果が「立てる像」ではないだろうか。絵に勤勉さを感じる。ユトリロの白も自分のものにしている。絵画も音楽も最終的な価値判断は仕上がりにかかるところが大きいが、この人の作品は概して完成度が高い。煙突の突き上げる垂直性が、その人柄を感じさせる。同時に、早世の影も感じさせた。


もうちょっとルソーの立派な作品を展示して欲しかったかな。加山又造の辣腕っぷりと横尾忠則のバカっぷりには笑った。有元利夫はもったいないな。デザイン出身のせいか知らないけど、あの精気のない木々はどうなんだろう?

カンブルランのドビュッシー


現代音楽を聴く人には馴染みのある名前だと思うけれど、知名度はまだまだ低いカンブルラン。読響への客演があったので聴きに行った。東京芸術劇場。予想通りというか、ちらほらと空席が目立つ。

前半はモーツァルトプログラム。しかし、お話にならない出来だった。楽譜をそのまま音にしているだけ。プラハは対位法の再現とか聴かせどころが沢山ある曲だけど、そういった細密的な描写の魅力にも乏しい。現代音楽系の指揮者がモーツァルトのような古典を演奏すると、ピリオド奏法的なアプローチが見られたりするものだけど、カンブルランは模範的で均整のとれたオーセンティックな演奏を心がけていた。それがピアノ協奏曲23番の伴奏では活かされていた。バランスのとれた伴奏でプラハよりずっと良かったが、今度はソリストのムラロがいけない。


ムラロも現代音楽を得意にするピアニストだ。私の中ではエマールに近い立ち位置にいる。このタイプの演奏家に多い、ころころとして、音離れのよいタッチでピアノを弾く。しかし、音が明快すぎて、漸弱・漸強でなめらかさや抒情を失う時もある。ムラロのモーツァルトもそこが問題で、弱音のニュアンスに乏しい、幼稚な演奏に思えた。二楽章の出だしなんか、最高の見せ場だと思うのだけれど、ムラロは弾き飛ばす様にポンポンと進む。もうがっかりした。ただ、アンコールのラヴェルは得意にしているだけあって、良かったけれど。


後半はドビュッシーがテーマのプログラム。ストラヴィンスキーはオケの非力さがまず気になった。管楽器だけで演奏するので、高いアンサンブル精度が求められるが、ちょっと厳しい。女性のクラリネットはとても良いけれど、態度のでかいあのトランペットとか投げやりで聴くに堪えない。なぜ吹ききらないのか?ただ、明かにカンブルランの指揮は活気付いており、この指揮者の持ち味の片鱗が見えた気がした。


そして、「海」が始まる。これは大したものだった。プローベの殆どをこの曲に費やしたのではないだろうか。至る所にカンブルランのこだわりを感じる。オケも初顔合わせのわりに、意図をよく理解していたと思う。弦のトレモロの微細な色彩感はとにかく美しいと思わせるし、カモメの鳴き声が聴こえてくるようだった。解釈的にはヘンスラーから出ている、南西ドイツ放送響の録音と相違ない。


カンブルランの演奏は、割とのっぺりとしている。つまり、構造面を一振りで開示していくタイプの演奏ではない。音楽の持っている生々しさ、シークエンスといった要素を切り捨てずに引き延ばしていく。その上で、曲にパースペクティヴが生まれれば良いというスタンスなのだろう。要するに、愚直なのだ。繰り返し演奏すればするほど良さが出てくる気がした。だから、明日も同じプログラムの演奏会があるが、そちらの方がより高い純度の表現になるのではないだろうか。


アンコールのサティ=ドビュッシー編のジムノペディはピアノをハープに置き換える上手さとか、ドビュッシーらしい立派なものだから、もっと演奏して欲しいと思っていた。アンコールで聴けて、嬉しかった。15日のトゥランガリーラはムラロも得意だろうし、行こうかなあ。

ギャグマンガの最新鋭スタイル・20世紀少年


どれくらい前だったか。浦沢直樹20世紀少年」の連載終了が新聞やネットで話題になっていた。
評判は非常に悪い。どういった終わり方をしたのかに興味があったけれど、読む機会もなかった。


スピリッツを読まなくなって久しい。「ルサンチマン」みたいな退屈な作品が、評判になり出したころからスピリッツに対する興味を失った。新井英樹エピゴーネンが紙面を埋めていく様は、購買意欲を著しく削ぐ。


現役のマンガ読みで、浦沢直樹を評価しない人はいないと思う。というよりも、評価せざるを得ない。それくらい実力がある。私も、とても高く評価しているけれど、浦沢のマンガを読んでいると、ときどきバカにされているような気持ちになる。浦沢は、巧妙に罠を仕掛ける。笑いや驚きを引き起こす装置を周到に設置していく。読み手は、罠にひっかかるまいと気を付けていても、餌食になってしまう。そのあざとさには感嘆するし、不快にもなる。浦沢のマンガは最初の3冊くらいが最も面白い、などと揶揄されるのは、そこに原因があるのだろう。物語が進めば進むほど、手練手管が浮き彫りなっていき、興が醒めていく。


浦沢のマンガ家としての資質を十全に発揮した作品は「MONSTER」だろう。はっはりと言えば、「MONSTER」以前の浦沢と、以後の浦沢は、もはや別の作家になったと言っても差し支えないはずだ。これは、最後までよくまとまっているし、手塚治虫的ともいえる古典的なマンガ技法へ回帰している点も興味深い。この作品の後に(あるいは同時に)描いているのが「20世紀少年」であり、「PLUTO」である。


PLUTO」は本当に面白い。少なくとも3巻までは。「20世紀少年」は、この第1部最終話を抜きにしても、万博という史実と、荒唐無稽なSF要素が混濁しており、物語を描くのに終始した「MONSTER」や、手塚が用意したSF設定を貫いている「PLUTO」と比較すると、マンガとしての強度は落ちる。前述した事実と虚構の断絶性をうまく利用していたのは前半、カンナが成長するまでで、ともだちが世界を支配してからは、設定の荒さが目立つようになり、説得力を失いつつあった。なんとなく読むのをやめたのも、それくらいの時期だったと思う。


そして、ようやく発売された最新刊を読んだが、これはひどい。いわゆる「夢オチ」に近いノリで、いままで積み上げてきた布石はなんだったのかと問いたくなる。私は、夢オチ自体は嫌いではない。覆水が盆に返る瞬間のスピード感や暴力性、そして水が飛び散った後の虚無感には、胸が痛くなる。ただ、この終わり方は、水の入った盆をだらだらと返すような退屈なもので、瞬間は凝縮されずに、伸張されていく。荒唐無稽なウッドストック。もはや、これはギャグマンガである。


ギャグというものは、時代性と密接に関係がある。「マカロニほうれん荘」を今読み返しても、さして面白くないように、ギャグは当時の流行や様式を取り込んで、都合のいい形に加工することで、本来の意味を失わせる。そういった点で、時代性の断片を、幾多も埋め込み、その意味を徹底的にはぎ取っていくことを主張したこの作品は、稀代のギャグマンガなのかもしれない。機能的で、スマートで、時代のトップランナーと評価される浦沢直樹らしいギャグのスタイルだと思う。