ボストリッジとドレイクの冬の旅


ジュリアス・ドレイク、彼はすばらしい。初台オペラシティ・コンサートホールでの公演。

ボストリッジは「冬の旅」をアンスネスと録音している。評判は良いけれど、私は、ちっとも感心しなかった。


まず、ボストリッジの繊細な表情が、アンスネスの立体感のあるタッチに押し出されているのが、気になる。部分によっては歌よりもピアノが飛び出してくるのが、耳に痛い。たとえば「雪解けの水流」「鬼火」はニュアンスに乏しくて物足りない。ぼそぼそと聴こえる。「辻音楽師」なんかはリズムが浮き彫りなっていて面白くもあるけれど。アンスネスショパンを聴けばよくわかるけれど、普段は弾き飛ばしてしまう様なフレーズのリズムを再構築するのが巧み。でも、その面白さは、ボストリッジとの冬の旅に必要だったのだろうか?


以前にもどこかで書いたが、ボストリッジはすべてにおいて繊細だ。その繊細さは神経質の裏返しであるし、それを理解している伴奏者が好ましい。アンスネスや内田のピアノは、ソリスト的表現であって、伴奏としては饒舌すぎる。語ることが、ボストリッジを悩ませ、純化を試みる事すら許さない。フィッシャー=ディースカウの様な人は、饒舌さに拮抗しうる強靱さを持っている。ボストリッジには、そういった強さはない。むしろ、弱さと肉薄している儚さに魅力がある。


その点で、ドレイクは、アンスネス以上にすばらしい演奏を聴かせてくれた。残響の雄弁さはアンスネスになかったものだし、それは、シューベルトのリートにおいて抒情へと帰結する。ドレイクの実力を知るには、ボストリッジとの「ヘンツェ歌曲集」を聴くのが一番だと思う。「アラビア歌曲集」の第1曲、第2曲がわかりやすい。強奏が決して混濁せずに、清らかな明快さを持って独唱と呼応しているのは、ほとんど驚異的である。タッチの輪郭は常に明快だけれど、なめらかな弧を描くようゆるやかさも持ち合わせている。そして、残響処理の上手さは、いままで聴いてきたピアニストなかでも指折りである。


シューベルトでは、アンコールでやった「月に寄す D.296」が印象的だった。ブリテンの「冬の言葉」という、なかなかよく出来た歌曲集もプログラムに編まれていて、その中では「大西部の真夜中」が最もよかったと思う。


ボストリッジについてより伴奏者についての日記になってしまったけれど、彼の調子が今ひとつだったことに遠因してたりする。26日の「水車屋」も観に行くので、期待。